「死にたい」の正体は、うつ病ではなく「自消感」かもしれない。

コラム

昔の自分の写真を見ていた。
顔も肩も腰も丸く、肩が上がって前に出て、前屈みになっている。どこか自信なさげで、笑顔の奥にどことなく寂しげな色を宿した私がそこにいた。

あの頃の私は、いつも何かにイライラしていた。 
子育ても終わり、仕事だけしていればいい。20代の自分からしてみれば、羨むほど恵まれた環境にいるはずなのに、なぜかずっと何かに追われているような感覚があり、どうしてもゆっくり休むことができなかった。

起業して1年。がむしゃらに働いて、なんとか軌道に乗ってきた頃、幸運も重なって金銭的にも余裕が出始めた。なのになぜか、胸の奥を襲う虚しさの意味がわからなかった。その焦燥感を埋めるかのように休みを取らず、暇ができれば飲みに行ったり、どこかへフラッと出かけたりして紛らわせていた。

けれど、ビギナーズラックは長くは続かない。 
ある時期から、みるみるうちに業績が悪化していった。不運は続き、金銭的にも完全に行き詰まった。毎月の支払いのたびに、胸がギュッと縮こまる気がした。 全てを他人や状況のせいにしてみたけれど、現実が何か変わるわけでもない。私はただ、不幸だった。

1人きりで誰にも相談できず、ただ恐怖と戦うししかなかった。 
心を落ち着けようと瞑想をしても、頭には最悪の結末ばかりが浮かんできて、心臓がバクバクと鳴り響いた。

「もう無理だ。もう、全部終わらせたい。消えてしまいたい」

その時、ふと思った。 
私は昔から、いつも「死にたい」と思っているな、と。 
ああ、そうか。私は「自己肯定感」というものが、根本的にないんだと気づいた。

いつも心の奥で、自分を責める声が聞こえていた。 
「それじゃ足りない」 
「もっと頑張れ」
「もっとやらなきゃ、他の人はもっと先に行っている」

だから休めない。どれだけ頑張っても自分に満足することなどない。その声は、さらに自分を追い込む状況を自ら作り出していった。 
きっとだから、いつもしんどくなって、やってもやっても辿り着けないことに絶望して「死にたい」って思っていたんだな。その時は、そう納得していた。

心ではなく「体」から変えていく

私はとにかく、そんな自分を変えたかった。できることはなんでもやろうと思った。 
毎日自分を褒める練習をして、自分を労ることも少しずつできるようになってきた。自己啓発の本を読み漁り、ヨガや瞑想、スピリチュアルから心理学、精神医学まで、ありとあらゆるアプローチを試みた。

それでも、思考が暴走する「心」を直接扱うのは難しかった。だから、心と深く繋がっている「体」から変えようと思ったのだ。

最初はランニングから始め、そして、昔からなんとなく続けていた「ヨガ」を本格的に勉強し直した。集中的に体と呼吸を動かすトレーニングを重ねるうち、明らかな変化を感じ始めた。 
体が変わると、確かに心が軽くなる。当時の私にとって、体を動かすことをやめるのは、あの「死の重力」に逆戻りすることを意味していた。毎日続けるうちに体は確実に変化し、頑なだった心も少しずつ解けていった。

ヨガのトレーニングを毎日3年ほど続けたことで、あんなに硬かった体は驚くほど柔軟になり、かつては力が入らなかったお腹のコア(丹田)がぐっと強くなった。
必死で傷つかないように胸やみぞおち、下腹部を守ろうとしていたせいで、肩や背中が丸くなっていたのだ。けれど、体が変わるにつれて次第にお腹が伸ばせるようになり、胸が開き、肩の力が自然と抜けていった。見た目の姿勢は、あの頃とは別人のように変わった。
そして同時に、体の内側にこびりついていた鬱屈した重さや暗さが、まるで霧が晴れたように消えていった。
気がついた時には、私は毎日のように抱いていた「もう死にたい」という思いを、全く思わなくなっていた。

あれほど私を支配していた、鮮烈で、生々しかったあの頃の苦しい感情。それが、心と体が回復していくにつれて、少しずつ、少しずつ色褪せていったのだ。
今では、当時の絶望がまるで「遠い昔の白黒写真」のようになってしまい、むしろ努力して思い出そうとしないと、あの痛みをリアルに再現することすら難しくなっている。人間には、それほど素晴らしい回復のシステムが備わっているのだ。

隠された感情の正体

そんなある時のことだ。何気なくインスタグラムを見ていた時、ふと嫌な感情が胸をよぎった。
そしてその瞬間、私は無意識にその感情に蓋をしようとした。 そのまま見なかったことにしようとした自分を、もう1人の私が呼び止めた。

「ちょっと待って。今のはなに?」

私は何を感じて、何から目を逸らそうとしたのだろうか。嫌々ながらも、逃げずにその感情と対峙してみた。

それは、「恥ずかしい」という感情だった。 
私が見た動画は、自分と同じような職業の人が華やかに成功している様子だった。それを見た瞬間、そんな風にできない自分のことを猛烈に「恥ずかしい」と感じ、その惨めさに耐えかねて、すぐに記憶の底へ封印しようとしていたのだ。

「恥」とは、一体なんなのだろう。気になって調べてみると、意外な事実が分かった。

心理学において、「恥(Shame)」と「罪悪感(Guilt)」は明確に区別されている。

  • 【恥(Shame)】:焦点は「自分の存在そのもの」。「私はなんてダメな人間んだ」という内なる声になり、行動傾向は「隠れる、逃げる、消えたくなる」。
  • 【罪悪感(Guilt)】:
     焦点は「自分の行動(したこと)」。「私はなんて悪いことをしてしまったんだ」という声になり、行動傾向は「謝罪、修復、埋め合わせ」。

恥は「自分という存在そのものの否定」だ。だからこそ、まともに食らうと心が壊れてしまうほど痛い。だから脳のサバイバルシステムは、「見なかったことにしよう」と蓋をする。できない自分を隠し、その話題や人から距離を置く。そうして蓋をすることで、自尊心がこれ以上傷つくのを必死に防ぎ、命を守っているのだ。

え?「恥」ってもしかしたら、とんでもなく恐ろしい感情なのではないか? 
「存在の否定」ということは、この感情に呑み込まれると、人は自分を消そうとするのではないか?

実際、恥という感情の本質は、「私の存在そのものが間違いである(私はいない方がいい)」という結論に、脳をダイレクトに結びつけてしまう点にある。心理学でも、恥は「自己の消去(The erasing of the self)」を欲する感情だと言われている。

心があまりにも強烈な恥に侵されてしまうと、人間はグラデーションのように「自分を消す」ことを考え始める。 
物理的に人の視界から消えようとする「ひきこもり(空間の消去)」から、関係性を断つ「人間関係のリセット(繋がりの消去)」、アルコールなどで感覚を麻痺させる「意識のシャットダウン(感覚の消去)」。そして最悪の場合、「自分がいない方がみんなのためになる」という歪んだロジックが完成し、肉体そのものを消去しようとする(自死)。

他のどの感情もエネルギーが外に向かうのに対し、恥だけは「自分という存在」をターゲットにして、内側から崩壊させる特殊な性質を持っている。だからこそ脳は、何が何でもそこに蓋をして、これ以上傷つかないよう必死に守ろうとしていたのだ。

私の根底に常にあったのは、この「恥」だったのだと、今になってようやく気づいた。だから、私は何度も自死を考えたのか。全てが腑に落ち、合点がいった。

専門家たちにも見えない領域

けれど、なぜ私たちはこの危険な感情の正体に気づけないのだろう。 現代はすぐに「〇〇障害」「〇〇病」というラベルを貼る。しかし、ラベルを貼られた本人が「そうか、私は不完全で、社会のお荷物なんだ」と受け取ってしまえば、その病名は救いではなく、存在の否定を決定づけるスタンプになってしまう。医療や社会がすべきなのは、病名をつけることではなく、「あなたの脳がバグを起こして自分を攻撃している状態だよ」と教えてあげることのはずだ。

そして何より、日本語の「恥ずかしい」という言葉のあやふやさが、この感情の危険性を少し分かりにくくしているのかもしれない。

英語にある日常の「恥ずかしい(Embarrassment)」と、深層の「消えてしまいたい(Shame)」は、全く違う感情だ。けれど、日本ではそれらが全て「恥ずかしい」の一言で片付けられてしまうことが多くある。命に関わるほどの重い感情が、日常のちょっとしたポカと同じ言葉で一括りにされていることに、私は強い危機感を覚える。

もちろん、専門の先生方も日々、一生懸命に研究を重ね、現場で奮闘してくれていると信じている。

ただ、一つ懸念されることがある。それは、心理学や精神医学を志す人の中には、ご自身もまた、まだ克服しきれていない心の問題を抱えているケースが少なくない、ということだ。 
自分自身の生きづらさを解消したいという切実な想いがあるからこそ、その道に惹かれるのは、ごく自然なことだ。むしろ、全く心に傷を負ったことのない人には、理論は分かっても、あの「胸の縮こまり」を本当の意味で「感じる」ことは難しいだろう。心理的な問題は、机の上の理論だけで片付けられるものではなく、頭と体、そして心はすべて繋がっているものだからだ。

だからこそ、当事者だった人がその道を研究することには大いに賛成だ。

しかし、だからこそ知っておいてほしい。それは、「自分自身の心の成長度合いによって、見える範囲が全く変わってしまう」という厳しい現実だ。 
もし、支援する側の専門家自身がまだ無意識の防衛システムの中にいるとしたら、そこからではどうしても見えない、触れられない領域が残ってしまう。

もちろん、私自身もまだまだ見えていないことがたくさんあると思っている。それでも、かつて完全な暗闇にいた私が、体を変えることで少しずつシステムを抜け、今だからこそようやく見えてきた領域がある。

今の医療やカウンセリングの現場で、病名(ラベル)をつけることや、お薬の処方だけで終わってしまっているとしたら、それはとてももったいないことだ。
自死の統計データはあっても、人がそこに至るまでの「本当のミクロな心の動き」や「身体の苦しみ」のプロセスは、まだ十分にすくい上げられていないのではないか、と感じる。

死に導く重力、その名は「自消感」

死にたい、と思った時、私たちの胸の奥は必ずギュッと縮む。自分が小さく、なんの存在価値もない人間のような気がして、消えてしまいたいと思う。 
それは「絶望」や「無力感」という言葉の奥にある、もっと生々しい身体の縮こまりだ。顔が赤くなることも、苦笑いすることもない。テヘペロで済む問題ではない。

名前がわからないものに、人は気づけない。 
だから、この死に直結する恐怖の感情に、私はあえて新しい名前をつけたい。

それは、「自消感(じしょうかん)」だ。

自分の力のなさを、自分自身の「存在価値のなさ」と定義してしまい、消えてしまいたい、目を背けたいと、心と体がフリーズする感覚。 
古い日本語の「恥」は、本来この「自消感」に近いものだったのだろう。「恥を知れ」と言って切腹した武士の行為が死と繋がっている以上、それは日常の恥ずかしさではなく「自消感」だったはずだ。

とにかく今、「死にたい」と思っている人に知ってほしい。 
その衝動は、あなたの心が弱いせいでも、あなたの性格のせいでもない。あなたはただ、脳のバグが作り出した「自消感」という猛烈な重力に引っ張られているだけだ。

人が生きるのに、たいそうな存在意義も、立派な使命感も、全く必要ない。 
全ての人は、ただそこに生きる権利がある。 
例え誰かがあなたに「生きる価値がない」と言ったとしても、そんな言葉にはあなたを消す力など1ミリもない。

あなたを死に導こうとするのは、外側の世界ではなく、あなたの内側で暴れている「消えてなくなりたい」という自消感だけなのだから。

最後に…

私自身がこの「自消感」の重力を抜け、心と体を安全な場所へ移住させることができたのは、頭での理解ではなく、地道に「体」を変えていったからでした。

Mirei Wellnessでは、かつての私のように、言葉にならない生きづらさや身体の縮こまりを抱えている方が、呼吸とボディワークを通して少しずつ自分を取り戻していくための安全な空間を開いています。

ひとりで抱え込まず、まずは体の強張りをゆるめることから、一緒に始めてみませんか。

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