久しぶりに過去のご縁や、長年会っていなかった人たちと言葉を交わす機会がありました。
十年、数十年という長い歳月が流れても、驚くほど変わらない会話の節々。記憶のどこかから引っ張り出される「あの頃」の話。
その時間を共有しながら、私はどこか冷めたような、小さな違和感を覚えていました。 「人は、なぜこれほどまでに変わらないのだろう」と。
もちろん、それが悪いわけではありません。 ただ、そこにあったのは「あの頃の私」という古い写真をそのまま重ね合わされ、今の私を見てもらえていない寂しさでもありました。
私たちは「フィルター」を通して世界を見ている
ヨガの世界ではよく、「エゴとは自分を守るためのフィルター(認知の歪み)である」と言われます。
人は誰しも、傷つかないため、あるいは「自分」という存在を保つために、無意識のうちに自分だけのメガネ(フィルター)をかけて世界を見ています。
過去の栄光にしがみつくこと。
同じパターンの悩みを繰り返し続けること。
「分かった気」になってそれ以上深く踏み込まないこと。
それらはすべて、フィルターを外したときに現れる「素の自分」と向き合うのが恐いからなのかもしれません。
その固く結ばれたフィルターこそが、その人にとっての慣れ親しんだ「世界そのもの」だからです。
だからこそ、外側の環境や時間だけが過ぎ去っても、内側の視点(フィルター)を変えない限り、目の前の世界は一生変わりません。
「もっと〜ならいいのに」の正体
人は、多かれ少なかれ現状に不満を抱きながら生きているものです。
「心の底からすべて満足しています」という人には、私はあまりお目にかかったことがありません。
「もっとお金があれば」「もっとパートナーが協力してくれたら」「もっと時間があれば……」
キリがないその「もっと」の原因を、私たちはつい外側に探してしまいます。
「自分の能力を世間が認めてくれないから」
「政治が悪いから」
「仕事が忙しすぎるから」
そう、この世界が悪いんだ、と。
でもね、この世界は「自分が作っている」のです。
正確に言うなら、「自分が持っているフィルターが作り出した、とても馴染みのある世界」に私たちは住んでいます。
なぜかわからないけれど、同じようなトラブルや悩みが繰り返し起こることはありませんか?
相手や場所が変わったはずなのに、なぜかまた似たようなことで苦しくなる。
それは、あなたの内側にあるフィルター(「この世界はこういうものだ」という強い思い込み)が、その通りの世界を映し出しているからです。
「じゃあ、その嫌な世界を変えたい時はどうすればいいの?」
答えはシンプルで、そのフィルターを外せばいいだけのこと。
けれど、それが何より難しいのです。
なぜなら、そのフィルターを外してしまったら、自分がどうなってしまうか分からないから。
不満や文句を言いながらも、なんだかんだ今日まで生き延びてこられた「慣れ親しんだ世界」を手放すのは、無意識にとって恐怖でしかありません。
「もう嫌だ」と頭では言いながらも、私たちはその憎らしくも愛おしい、馴染みの世界に執着しているのです。
思考では気づけなくても、体はそれを知っています。
体は、いつだってとても正直です。
姿勢は、生きる姿勢そのもの
私は日々、ヨガや整体の場を通じて人々の身体と向き合っています。
身体のクセや姿勢の歪み。
それは単なる骨格の問題ではなく、その人がこれまでの人生で自分を守るために身につけてきた「生き方のクセ」であり、身体に表れたフィルターそのものです。
「姿勢は、生きる姿勢。」
自分の身体のクセに気づくこと。力みがどこに入っているかを知ること。
それは、自分を覆っていた鎧(フィルター)を脱ぐ作業であり、実はとても勇気のいるプロセスです。
だからこそ、私はいつもお伝えしています。 「自分のクセに気づけたとき、すでに半分以上は改善しているんだよ」と。
無意識だったものに意識の光を当てる「気づき」こそが、変容(変化)の第一歩であり、一番難しく、そして尊い作業だからです。
変わる準備ができたあなたへ
人は、他人のフィルターを無理やり外してあげることはできません。
「自分と向き合う」準備ができていない人に、どれだけ本質的な言葉をかけても届かないことがあります。
けれど、人生のどこかのタイミングで、
「もう古い鎧を手放したい」
「自分の足で、しなやかに立ちたい」
そう切実に願う瞬間が、誰にでも訪れます。
変容とは、何か新しい自分になることではなく、自分を縛っていた古い視点をひとつ手放し、素の自分に戻っていくこと。
私はこれからも、その「準備ができた人」が迷わずに辿り着けるよう、静かに扉を開け、温かい灯りを点し続けていたいと思っています。
あなたが今日、少しだけ肩の力を抜いて、軽やかな視点で世界を見渡せますように。

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